私たちは,身近な人を亡くしますと,
「どうして死んでしまったのか」
「かわいそうに」
それでも,とにかく葬式は出さねばなりません。
深い悲しみに沈んではいられないほど,次々と現実の問題が起こってきます。
どうか落ち度のないようにと思いつつ,親戚や友人,ご近所の方々の手を借りて葬儀は行われていきます。
残された遺族はもとより,お手伝いされる方や会葬されるかたの誰しも,
「丁重に送ってさしあげたい」
と思いながら葬儀を勤めさせていくのですが,ともすると葬儀の形のみに目を奪われて,
「仏事としての葬儀」
という大切な意味を見失っているように思われます。
葬儀とは,一人の人間の死という事実を,私たち一人ひとりが自分自身の問題として受けとめていくことであります。
ですから丁重に葬儀を勤めるということは,必ずしも斎壇の段数や豪華さでもなければ,僧侶の人数でもありません。
葬儀に参列されたかたの一人ひとりが,身近な人の死という悲しい事実を通して,真実の教え―仏法に出遇うことによって,自分自身のあり方を根本的に見つめなおすことであります。
そのことこそ
「仏事としての葬儀を勤める」
ということになるのでありましょう。
身近な人の死は,私たちの心をゆさぶり,今の日常が永遠に続くかのように錯覚して暮らしている私たちに,
「やがては死んでいく身をどう受けとめて生きていくのか」
と問いかけています。
しかし現実には私たちは亡き人に対して,
「どうか安らかにお眠りください」
あるいは
「心からご冥福をお祈りします」
ということで済ませてしまい,またもとの日常生活の中で,地位や世間体などに振り回され,かけがえのないいのちをすりへらしているのではないでしょうか。
「ひとりの人間の死」
という重い事実を自分の問題として受け止めず,ただ冥福を祈るということだけで過ごすとすれば,それは亡き人からの大切な問いを無にすることであり,
「自分のあり方を見つめなおす眼」
を自ら塞いでしまうことなのです。
愛する人,親しい人との別離ほど悲しく寂しいことはありません。
しかし,どれほど辛く悲しいことであっても,亡き人からの問いかけを私たち一人一人がしっかりと受け止めていきることこそ,遺された者の勤めではないでしょうか。
一人のひとの死は悲しい
しかし 遺された我らが そのことから何も学ばず
なにひとつ新しく生み出さないとすれば
それは もっと 悲しい