私が旧制中学三年の昭和二十二年秋、学校に立派な土俵ができ、その土俵開きが行われた。
各クラスから選ばれた選手たちがふんどし一つになり、大勢の同学年生たちに囲まれた土俵の上で、トーナメントを行った。
際立って強かったのでY君だった。
筋骨たくましく運動神経抜群の彼は相手をことごとく投げ飛ばし優勝した。
拍手喝采の中で表彰された彼の姿は、実に格好良かった。
人格も頭脳も優れていた彼は、ますます学年の人気者になった。
しかし、翌年の春、新制高校一年の一学期、彼は肺結核にかかり、以後一日も登校しなかった。
高校を卒業する頃、彼の病状は重態であり、明日をも知れない命であると聞いた。
それから三十年が過ぎ、初めての同窓会があった。
数十人が集まったが、みなそれぞれ個性は変わらず、すぐに誰かが解った。
ところが一人だけ顔が半分削れて、上半身が歪んでおり、やせ衰えた風のどうしても思い出せない友人がいた。
それがY君だった。
みなが騒いでいる宴席の片隅で、彼は私に言った。
「俺は高校一年の時から入退院を繰り返し、病気と闘ってきた。
結核で胸をつぶす手術をし、癌で顔の骨を取る手術を受けた。
それでこんな姿になった。
今日は大勢来ているが、俺ほどこの命を喜んでいる者はいないと思うよ。
俺は毎日窓から外を眺めるのだ。
草や木が風にそよぎ、小鳥がいっぱいやってくる。
あの草や木や小鳥たちも、そしてこの俺も、今よくぞ生かされていると、嬉しく思うのだよ。」
と。
その数年後に彼は亡くなったが、この言葉は忘れることができない。
最近、「どうせたった一度の人生なのだから、自分の思い通りに生きなければ損だ」と言う言葉をよく聞くが、何か空しいものを感じる。
「損か得か」
「役に立つか立たないか」
「楽しいか辛いか」
などという尺度しか自分の命を燃焼するための基準がないと思うのは、命を自分だけのものとしか思わない傲慢さだと思われる。
自分の命は、ほかのあらゆる命によって成り立っているのである。
命はいただきものであり、今日もよくぞ生かされているのである。
命が自分のものであるならば、何でも思い通りになるはずであろうが、そうはいかない。
むしろ、思いもよらないことや、どうにもならないことばかりである。
命に損得はないと思う。あるとすれば、
「尊く生きたか、無駄に生きたか」
ということではないか。
せっかくかけがえのない尊い命をいただきながら、しかもその命は仏様になるように願われていることに気付こうともせず、命は自分だけのものと思って過ごすことを、無駄に生きるというのではないだろうか。
いのち