私は山口県山口市で生まれ,中学二年の初めまで其処で育ちました。

小学校は一学年男子四〇名女子四〇名のこじんまりとした学校で,五年生と六年生の二年間,昭和十八年四月から二十年三月までの担任は佐藤一人先生という方でした。

当時は戦争末期で,空腹に耐えながら防空頭巾や竹槍を持って,

「鬼畜米英撃ちてしやまん」

と頑張っていました。

戦後間もない二十年四月急遽千葉県に帰郷してからは誰とも文通なく,山口市のすばらしい影色や六年間仲良く学び遊んだ友達が懐かしくてたまりませんでした。

時はたちまち過ぎ去り,山口時代の思い出は遥かに遠のいた五十年夏,父が急死した直後,一通の分厚い封筒が届いたのです。

その裏に佐藤一人と書かれてあり,一瞬目を疑い,次の瞬間飛び上がるほど驚きました。

興奮で震える手で封を切ると,

「やっと君の住所が分かったので近況を教えてください。
当時君のご両親からいただいたお手紙をコピーして同封しました。
親思う心に勝る親心です。」

と書かれ,当時よく教えていただいた山口県の偉人吉田松蔭師のお言葉もあり,三十年もの間、音信不通の私を案じていてくださったのです。

それにしても何というタイミングでしょうか。

亡き父がお浄土から早速先生にお頼みしたのではないかと思いました。

先生宛に毛筆で書かれた父の長文の手紙の概要は,

「長男克朗は心身ともにひ弱で将来が案じられてならない。
進学や職業選択について是非ご意見を賜りたい。」
ということでした。

父がこれほどまでに私のことを心配してくれていたとは思いませんでした。
たとえ私が気がつかなくてもいつでもどこでも先回りして願い続けておられる阿弥陀如来のお心を味わせていただきました。

昨年九月山口で同窓会があり,ついに四十四年ぶりに佐藤先生と十数名の同級生に会えました。

先生は当時極秘文書だった生徒一人一人についての性行評価や教科概評を皆に渡され,久しぶりの授業をされました。

「皆よう集まってくれちゃったのう。

わしゃ八十四才じゃがまだ電車で通勤して月給をもらいよる。

皆も体に気をつけて長う生きてもらいたい。

今世の中は物が豊になって心が駄目になってしもうた。

これからは何ちゅうても教育と宗教が大事じゃ。

隆君,あんたは住職をやっちょるそうじゃが,よろしゅうたのむで。」

六十才近い元生徒達は皆かしこまって聞き入っていました。

生涯会えないと思っていた友人達との思い出話は夜中まで絶えませんでした。
このような恩師に恵まれて幸せでした。

恩師