お寺の法話会にお誘いした折に,
「何もお寺に参らなくても,悪いことをせず善いことさえしていればそれでいいではないですか。」
といわれた方があります。
しかし何が善で何が悪なのかは極めてむずかしいのではないでしょうか。
自分で善と思ってしたことが,相手にはありがた迷惑ということもあります。
私達は,相手の善意を傷つけたことはないでしょうか。
浄土真宗の御開山親鸞聖人が最もいましめられたのは,うぬぼれの心(慢心=まんしん)であります。
善いことさえしていればそして悪いことさえしなければという考えは,この最も恐ろしい慢心につながると思います。
善いの悪いのとすぐに他人を批評する人ほど,慢心が強く,自分のことはよく解っていないようです。
単純な目で,浅い心で,そして自分の都合や感情で,すぐに善悪を解り切ったような顔であげつらっている。
そのこと自体を問題にすべきなのであります。
浄土真宗の教えの要点のひとつといえる「悪人正機」とは,
悪人こそ仏さまのお救いのお目当てであるということです。
親鸞聖人の言われた善悪の意味は,通常の法律や道徳でいう善悪とはまるで違い,
「自分は結構ましな人間で,善いことをしているし自分の力でもっと善い人間になれる」
と思っている人が善人であり
「自分とは何とはずかしい粗末な人間であり,何をしでかすか解らず,自分の努力ではどうにもならない」
と思っている人が悪人であるということであります。
私達は自分のことは自分が一番よく知っていると思いますが,そうではありません。
いつも自分の言動を正当化しようとし,自分の都合で善悪を判断しています。
いつも自分が正しいと思っている人ほど扱いにくい人はなく,すぐ人や物事の批評をする人ほど困る人はありません。
私達の本性は,やはり自分が一番かわいいという心です。
欲のかたまりと言ってもよいでしょう。
誰しもこの心に振りまわされてしか生きられず,そのために何かの縁でどんなことをするか解らないのです。
この心をなくそうと,どれほど努力しても無理なのです。
要するに悪人とはこの私のことであります。
自分の顔は鏡がなければ見えない様に,機会あるごとにお寺に参り,繰り返し聞法しながら真実の教えという鏡によって自分の本性に気づかされ,このような私こそ,
「そのまままかせよ,必ず引きうけたぞ」
と仏さまにいつでもどこでも目を離さずに願い誓われていることを,心からうなずかせていただくことが信心であります。
この私が悪人であることが解れば解るほど,仏さまのお心が喜べるのであります。
二度とない人生を,自分本意の善悪をこえた真の教えを依りどころに生きぬきたいものです。
善悪